紙で残すことの時間的損失

ぼくは、このサイトをぼく自身の実験台として、最終的には本を出版することを目指しているのですが、だんだんと「それは、なんのためなんだろう。」という気持ちが沸々と湧いてくるのは何でしょうか。

「本」というひとまとまりを残すことの意義

ある程度、情報としてのまとまりが完成したときに、本として残ることの意味はあるんだろうなぁと思います。その中にすでに知られている内容が多く含まれようとも、現在の法律では、著作者としての権利は保証されることになります。

それゆえ、出版して、もし利益が出たときには、さまざまな方法での収入を得られることになります。

本という形態の出版物は、誰もが持ち運ぶことができます。書店、あるいは家の本棚にも並べられることでしょう。より多くの人に読んでもらうための最終形というようなことを、ぼくは「出版された本」というカタチに求めてきたように思います。

でも、ぼく自身、もう長い間、古い本以外の紙の本は読まないんです。それは、今後も変わらないでしょう。だとしたら、本当に時間をかけて本として出版することが必要なんだろうか、ということを考えなくはないんです。

たとえばパソコンのデータが常に紙を媒体として更新されるとしたら

このタイトル・・・いきなりわかりにくい例えですみません。

会社の事務作業を引き合いに出すと、いろいろ紙を媒体にして作業を進めるわけですよね。たぶん、これは、人類の文明が始まって以来、作業の分業が発生している以上、今後もずっとやっていくことでしょう。

その時に、発注伝票、作業伝票、納品書、請求書、領収書、納品伝票、受領書ってずっと同じような内容の紙が作業工程ごとについて回るわけです。

パソコンで使うプログラムデータのアップデートに関して、その手続きをひとつひとつを紙でやることにしたらどうなるでしょうか。作業指示書が郵送で送られてきて、これこれこういう作業をして更新してください。できたら、作業報告書に署名をして、返送願います。なんて、普通ないですよね。

パソコンの場合は、プログラムを書く人が不具合があれば、直接データを書き換えるわけです。それで、使う側は、ただ更新というメニューを実行するだけです。大幅に更新がある場合には、バージョンが変わり、アップデートという作業をします。途中データがどう変わっていくのかを、ひとつひとつユーザーが見ることはありません。

現代の本というのは、日常生活を豊かにするプログラムのデータと言えなくはないです。そうだとしたら、最初に「読む権利」だけを買うか、サブスクリプション(月額いくらとか)で支払うことにして、あとは、更新またはアップデートしていくという読み方もできると思うわけです。読む人は、常に最新版をスマホかタブレットで読めます(もちろん、パソコンでも)。

サブスクリプションで読める本を設定してみます

ということで、この本(下記のリンク先)は、実は、トップメニューには表示されません。しかも、有料といいつつ、ここには、全文が掲載されています。ただし、リンク先である「note.com」では、1話100円で販売しています。毎日何かしら痕跡を残して書いていくので、このサイトのオマケ、お楽しみとして読んでいただければ幸いです。

ショート、ショート(短編小説)

と、なんだかんだ言いつつも

本を出版したいというのが本心です。そこを目指すことには変わりはありません。それまでにできることも全部やってみたい。途中経過を見せるのもおもしろいじゃないかと思って、こんな文章を書いてみました。

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