脳性麻痺の当事者のための本
これは、ぼくが本を書くというより、取材をして、そのルポを書くという感じになると思います。
ネットで検索しても、脳性麻痺のことは、専門的な内容しか出てきません。あるいは、その親から見た視点での内容が多い。当事者の声というのは、あまり届かない、届いてこないという感じです。そのため、イメージだけが先行して、なんとなく「車椅子に乗って、不自由そうに聞き取りにくい声を出す人」と、そんな感じだけで捉えている人が多く、特に頚椎損傷の後遺症で障がいを持った方とか、他の障がい者ともあまり区別されていないことが多い。
ぼくが接したことのある数名だけでも、運動障がいには苦しんでいるけれど、非常に豊かな感性と個性、知性を持った方ばかりでした。彼ら彼女らが、当たり前に一人の人間として生きていける社会になってほしいという願いを持って、この本を書いてみようと思っています。
ようこそ
ヒロスタジオにようこそ。ここは、ヒロヤスの活動と生活の拠点。電動車椅子で動けるスペースに、ぼくのすべてが詰まってる。ぐるっと見渡してみても、一人の人間が生きていくためのスペースやモノって、実際こんなものじゃないかって思う。歳をとったせいか、あきらめなのか、物欲はまったく無くなった。スマホやパソコンはいつも最新のモノが欲しいと思うけれど、すぐに「今あるのでいいや。」って思ってしまう。
ぼくには、痙直型(けいちょくがた)の脳性麻痺があって、電動車椅子で生活している。手が届く床上70〜120センチの世界がぼくが生きている水平線だ。
おっと、いきなり「痙直型」という見慣れない、聞き慣れない言葉が出てきて申し訳ないが、このあたりはあとで解説していこう。この本は医療専門書じゃないから、できるだけ、専門用語は使わないで書きたい。ただ、障がい者とか、脳性麻痺とかっていうと、なんかみんな型にはまった見方をされて、ぼくにとっては、気持ち悪いときがある。「ふつう」っていう言葉も好きじゃないけど、みんなの「ふつう」が本当に「ふつう」なのかなっていうことも、この本で伝えたいことだったりする。
初めて会う人が、いちばん驚かれるのは、ぼくがこの不自由に見える手でパソコンを駆使していることだ。作業所(就労継続支援B型事業所)では、テープ起こしをしていて、これで微々たる収入も得ている。おかげで苦手だった漢字も最近読めるようにもなって、こうして本を書くことにも役立っている。まあ、近年はAIだし、音声入力も便利になってきたから、テープ起こしを人の手ですることも減っていくだろう。また違うことにもチャレンジしてみたいと思っている。
脳性麻痺という障害についての、医療関係の専門的な本はたくさんある。でも、自分を含む当事者がふだん感じているような思いが伝わる本がほとんどない。生まれてから40年の間に感じたことを、本にしてみたいと思った。
大阪で生まれた
1984年(昭和59年)大阪府関西医科大学附属病院でぼくは1,810グラムの未熟児で生まれた。ぼくがなかなか歩き出さなかったので、心配した両親が作業療法士の方に相談をして、1982年に設立されたばかりのボバース記念病院を紹介され、小児整形外科で脳性麻痺という診断を受けた。
父親の転勤の都合で大阪、山口で暮らしたあと、3歳半のときに、両親の実家がある鳥取に帰ってきた。鳥取県立療育園、鳥取養護学校を経て、高等部3年のときに障害者福祉センター厚和寮を実習で訪れた。その厚和寮に19歳から28歳までの9年間自宅から通った(通所)。
「寮」と名前がついていることからわかるように、ここは、もともと入所型の障害者支援施設だった。ぼくは定期的なリハビリが必要だったので、ここには入所せず、通っていた。